「さわり」は僕の三味線協奏曲のカデンツァ部分からなる作品。
もちろん「さわり」とは三味線の音楽のうちで最も重要な音。
それは何か、というと三味線の一番低い音程の弦(糸)がネックに触れて生まれる残響装置、振動する糸に触れるので、ビーン、とノイズが出る。
他の糸も、もしその最低音弦(一の糸)に共鳴すれば、同じくノイズが出る。
それを「さわり」という。
なーんて偉そうに書いているけど、僕も実際全然知らなかった。
西洋音楽的に考えると、こうしてわざわざノイズを追加する、というのは考えられない。
ノイズをどう取る除くか、が西洋音楽の美的感覚。
このノイズを美しい、と思う日本人、というのはやはり世界的にみて相当ユニークだと思う。
僕も美しいと思う。自分は自分が思っているより結構日本人なのかもしれない。
良い三味線音楽、というのは最初から最後までずっとこのビーンというノイズが演奏中鳴っている、というものだ。
いや、ものらしい。
僕が最初に書いた三味線のソロの作品「Neo(音緒)」。
この曲を書いている時は「さわり」の存在は本條秀太郎さんの三味線の本で知っていたけど、それがずっと鳴っていないといけない、というのは知らなかった。
「Neo(音緒)」の委嘱者であり、作曲する上で何度も試し弾きをして作曲が進むのを助けてくれたのは本條秀太郎さんのお弟子さんの本條秀慈郎さん。
この作品を演奏する時、録音時など秀慈郎さんは「いやー、この曲、今日もさわりがビンビン鳴ってますね!」というので、てっきりそれは「今日はお天気がいいですね」みたいな丁寧な挨拶の一環かな、と思っていた。
実は褒め言葉だったとは!
というのもこんな「さわり」が鳴る曲をさわりの存在を知らずに書けてしまったのは秀慈郎さんの導き方が上手かったのでしょう。
そして、「Neo(音緒)」が三味線協奏曲になり、そこで新たに書かれたカデンツァ部分。
もう三味線協奏曲を書いている時は、僕はすでに「三味線に書かれる現代の音楽ってさわりが鳴ってないのが多いのが困るよね」なんて偉そうに言ってる状態までに成長していた。
このカデンツァを単独作品にした時に、タイトルはどうしましょう?と本條秀慈郎さんに聞くと、「さわり」は?と。
そんなタイトルって変じゃないの?ちょっと秀慈郎さんのお師匠の秀太郎さんにも聞いてみてくれませんか?
「師匠が今隣にいらっしゃいまして、全然変じゃない、と言っています!」
というわけで、「さわり」、になりました。
藤倉大